 |
|
| C「ならでは財の再発見」 |
| 梅 原 陽 介 |
 |
| 平成12年 北東アジア国際アカデミーフォーラム(於:釜山大学)研究発表資料 |
1. はじめに
私は現在、商工会議所の専務理事という役を致しておりますが、その前は小さいながらも会社を経営いたしておりました。こういった仕事をする中で、常に私が従業員なり、職員なりにいってきましたことは、“自分にしかできない”ものを持て、ということです。それは技術、ポジション、物事の進め方、なんでもいい。どこにでもある、誰でもできるものではその存在価値を認めさせることはできません。会社や団体組織においても同じ事であり、うちの社にしかできない製品、できないノウハウ、その組織でこそできること、‘`その人(組織、団体、物)でなければ”ということを大切にしてきました。その人でなければ、つまりその人「ならでは」ということ、それはかけがえのない財産、宝なのであります。“地域,,という土地においてもそれは同じことが言えます。その士地にしかないもの、その士地でなければできないものがある。
今回、私はふるさと綾部について、綾部ならではの財産、つまり「ならでは財」を例に、「ならでは財」をもとにした地域振興ついて考えてみたいと思います。
なお、今回の報告については、薄学である私の認知する限りの歴史の事実と、私個人の私的視点から、「ならでは財の再発見」について−考察を述べるにすぎず、学術考証的には不備な点があると思われますが、その点についてお許し願いたいと思います。

2.「ならでは財の再発見」の意義
近年、地方の時代が叫ばれて久しい中にあっても、それに逆行するかのように、それぞれの地方がもつ個性というのは薄れてきているように思われます。それは言葉であり、建物であり、物品であり、もしかしたら人間についても同じであるかもしれません。情報化がものすごいスピードで進み、それに伴って“どこへ行っても同じもの”が様々なものに見受けられます。
各地で行われるイベントについてもそうでしょう。それらはほとんどが画一的で、その目的、個性などに特性や面白さを見ることができなくなってしまっています。地域を復興させる為のものであるはずのこういったイベントが、このようにまるで「どこを切っても金太郎」の状態では、行き着くところは、消滅以外の何ものでもなく、ただ意味も無く、お金と労力を無駄にしているに過ぎないのです。
どこの地域にも、そこにしかない歴史、文化があり、同じ労力とお金を費やすのであれば、それらをもう一度研究、発掘し、さらにそこに心(思い)とポリシーを吹き込むことによって、その地域「ならでは」のイベントを作り上げることができるのではないでしょうか。そうして初めて本来の目的を達成し、またそれが継続することによって、活性、盛上がりが生まれ、地域力の熟成が貯えられてくるのであります。この地域力の熟成こそが、今日私たちが再発見しなければならない、
真の活力であると考えています。

3.「ならでは財」再発見の分類
さて、地域においての「ならでは財」について‘`再発見,,をしようとする時、その「ならでは財」の種類によって、考察の切り口は変わってきます。もちろん、全てが明確に分類できるわけではありませんが、というよりもむしろ、ほとんどが明確な分類は難しいと言った方がいいかもしれない中で、あえて私は下記の4つのタイプに分類してみました。
1) 歴史文化的
2) 産業文化的
3) 学術文化的
4) 民宣文化的
まず1)の歴史文化的視点では、その地域を取り囲む歴史の変遷をたどり、外枠の全体像から、その地域文化が形成された経過について考証します。
2)産業文化的視点では、特に産業にかかわる地域文化の盛衰について考えます。
3)学術文化的視点では、地域の民芸、技能、民族、芸能など、いわゆる「文化芸術」とされるものについて考えます。
最後に4)民宣文化的視点では、この2,3,のい ずれにも属さない特異なものについて考えます。
地域の「ならでは財」は、これら4つが絡み合い、相互に影響しながら熟成されてきたものであろうと考えます。これらのことを踏まえ、私どもの郷地、綾部について考えてみたいと思います。

4.郷地あやべの「ならでは財」
1)織物のまち綾部
〜歴史背景から〜
綾部の「綾」という文字は、実は織物のことを意味しています。広辞苑を引きますと、綾は他に“たて糸とよこ糸を斜めにかけて模様を織り出した絹”とあります。
綾部市は古くから養蚕で栄えた町でした。綾部を東西に流れる由良川一綾部の人間にとって、ふるさとの代名詞ともいえるこの)||の氾らん原には、古代より自生の桑が生い茂り、養蚕の生産地であったと推測されています。この「綾部」という地名は、江戸時代のはじめのころまで「漢人」と書いてあやべと読んでいました。(ただし、この頃の「漢部」は現在の綾部市の一部の地域を指すものであったようです。)これをもとに、のちに「綾部」という地名が当てられております。
『書記』によると、古く古代日本国家(大和政権)では、朝廷の勢力が朝鮮半島へ進出したのを機に、半島からの渡来人が急増したことが記されています。大和国家はその勢力増幅に向けて、“部民制”という制度をつくり、労働力や特に高い技術者を持った渡来人たちを支配掌握しようとしました。百済から来た漢陶部(あやすえべ)や錦部(にしごりべ)、呉(高句麗)から来た漢織(あやはとり)・呉織(く れはとり入 などが大和や河内に居住地を与えられて畿内を中心に発展していったことが分かっており、この地綾部にも、朝鮮半島から渡来した漢民族が漢氏(あやうじ)を与えられ、漢部という集落をつくり所有あるいは支配したとされています。様々な技術を持った渡来人に、それぞれの部落を与えた朝廷が、桑が豊かに自生するこの地に、織物の技術をもった漢人を住まわせたのではないかという
ことも推測できます。
綾部が近年まで、養蚕、織物の町として栄え、それがこの地の“個性”とさえなってきた背景には、こういった歴史の流れがあるわけです。当然、日本全国、世界各国で同じように歴史と文化、その地の“ならでは,,がひとつの流れの中で形成されていることは当然のことであります。
〜産業文化としての発展〜
こうした養蚕、絹織物は古代一中世と、この地の特産品として朝廷・幕府へ献上されていましたが、時は流れて明治の時代、丹波(京都府の中部一帯を指す地名)の糸は全国の審査会では酷評を受けるほどに質は低下していました。再び綾部の養蚕が全国的な評価を取り戻し、更には一大産業として発展を遂げたのには、波多野鶴吉氏の偉業があります。氏は、綾部に生まれ育ったあと、京都、大阪で勉学に励み、再び綾部に戻って教職につきますが、生徒の家庭訪問で養蚕家の厳しい実態を知ったことをきっかけに、養蚕についての研究調査に携わることになります。1886年、何鹿郡(いかるが−当時の綾部市一体の呼び名)の蚕糸業組合長に就いた波多野鶴吉は、就任後、すぐに製糸会社の設立を計画しました。郡下の養蚕家が生産する繭を地元で消化し、蚕糸業を中心において何鹿郡の発展を目指そうとしたのです。
会社設立の道は非常に厳しく、困難を極めましたが、長く不遇にあった養蚕家の全面的な協力を得、ここにグンゼ株式会社の前身であります、群是製糸株式会社が設立されました。氏の業績は、現在一部上場に名を上げるまでに成長した会社を創立運営したことだけではありません。彼は非常に教育に熱心な人物で、良質の教育こそが、会社の発展、町の発展の基盤になるという信念を持ち、綾部の教育、文化にも多大なる影響を与えてきました。その証拠に、グンゼには工場よりもきれいで大きい学校があり、そこで働いていた女工さん達は、充分に教育を受けた立派な子女であるとして認められていたのです。
この郡是製糸株式会社の設立により、綾部の製糸産業は息を吹かえし、大いなる発展を遂げ、また、それに付随する多くの産業がこの地で隆盛を極めていったわけです。近年、綾部市をとりまく現状は時代とともに変化をしておりますが、グンゼの製糸業なくしては語れないこの地であり、それは遠く漢人の渡来に由来するという歴史文化を持っているわけであります。これらは、ひとつの文化であ
ると同時に、産業としても「ならでは財」としてこの地に熟成されていったわけです。

2)能・狂言と綾部
さて昨年、私ども綾部商工会議所は、創立50周年を迎えましたが、いくつかの記念行事を行う中で、メイン行事として、野村万之丞氏による狂言の公演を行いました。
狂言の発祥は、奈良時代に中国から渡来した「散楽」(さんがく)で、平安時代には、猿楽(さるがく)となり、鎌倉時代を経て狂言になりました。現在では高尚な文芸という印象がある能、狂言も、中世には農民が五穀豊穣を願って神社に奉納し、各地でそれぞれの舞が舞われたものであり、もっと生活に密着したものであったと考えられます。
養蚕が特産物であった何鹿郡においても、生業の中心はやはり農業であり、この地にも農生産にかかわる独自の祭礼や行事が神への奉納という形で発展していきました。市内には、中世末ごろに源流をもつ芸能が、祭礼行事として伝承されています。そのひとつに島万神社の「太鼓踊」と「太刀振」という踊りが毎年欠かさず奉納されていました。明治のころまで、この踊りの間に狂言をはさみ、踊りと狂言を交互に演じて半日がかりで、村中あげての祭礼を行っていました。近郷からの参拝者も多くずいぶん賑わったとされています。
そして各地に独自の猿楽があったように(加賀の伯山猿楽、福井の越前猿楽、滋賀の近江猿楽など)、あやべにも“丹波猿楽”があり、1481年、当地の梅津景久は、宮廷で「芦刈」という能劇を演じ、宮より梅若と云う姓を賜わりました。梅若は現在の観世流の流れをくんでいるといわれています。室町時代には景久の子、梅若広長が、織田信長に召され能を舞い、何鹿郡の上林庄に移住したことが伝えられています。その後徳川の時代には、家康に使えて都へ上り、この地綾部を離れていったのであります。
このような形で、当地では狂言とのつながりがあったにもかかわらず、今日までその事実は別段取り上げられることはありませんでした。一方綾部には、グンゼ同様に町に多大なる影響を与えてきた大本教(1892年開教)があり、開教100年を記念して建立された長生殿には、本格的な能舞台が構えられています。私どもの中では、この大本教の能舞台を、−宗教の所有物としてだけでなく、地域の財産としてまちおこしに利用していきたい、という長年の思いがありました。
今回、前述のような歴史の再発見と、文化財産をまちおこしに活かしたいという積念とがあいまって、大本能舞台での狂言公演が実現したわけであります。

5.「ならでは財」こそが地域発展のカギ
私は昔から、郷士の古い歴史やもの語り、言い伝えに関心があり、会社経営の傍らで、こういったものの小冊子を編集したり、様々な事業を行ったりしてきました。「文化人と経済人」といいますと、全く別の世界の人間のように思われますが、しかし、「文化と経済」というもは常に密接に関わって歴史がつくられてきたわけです。商工会議所という経済団体が、なぜ文化に力をいれるのかと疑問を持たれることもしばしばありますが、ひとつの地域の中で、その土地「ならでは」の文化・財産を活かし、発掘、育成させていくことは、ひいては経済の発展に大きく貢献をしていくものと私は信じております。
私どもは現在、“あやべ地域の「ならでは財」の発掘と新たなまちづくり”と題し、民話をもとにした狂言上演によるまちづくり、伝統産業の復興事業を計画中であります。この中では、今回は触れませんでした綾部の伝統文化産業であります、黒谷和紙という和紙も、狂言衣装に取り入れていくといったように、「ならでは財」をまさに凝縮した事業展開を検討しております。
これまで述べましたように、全国各地に「ならでは財」があり、これを発掘していくことが、地域の観光産業に魂を吹き込む鍵でありましょう。野村万之丞氏の言葉を借りれば「余人も以って代え難い」。このことが地域の発展のまさに基本、原点であるのです。 |
2000.10.10
北東アジア国際アカデミーフォーラム(於・釜山大学/韓国) |
  |
|